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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

ヘロドトス「歴史」を読む

2002/12/04(水) 古代ペルシアの民主主義問答

 「おすすめの本」というテーマで書こうと思ったら、消えてた。ま、いいか。僕が挙げたかったのはヘロドトス「歴史」(松平千秋訳、岩波文庫、全三巻)である。最近調べものをして読むことが多い。教科書的に言うと、「歴史」は専制君主の支配する大帝国ペルシアと古代民主主義制度のギリシア諸国が戦ったペルシア戦争(紀元前5世紀はじめ)の記録、ということになる。
 ところが実際には、ヘロドトスの記述は時々大きく脱線して、諸国の地理誌・民族誌になる(当時のギリシャ人にとっての世界は大体北はアルプスから南はエチオピア、東はウラル山脈やインドまでだった)。実に奇妙奇天烈な風習や動物が出て来たりもする。ヘロドトスは見聞をありのままに書こうと務めており、驚くほど他文化への偏見が無い。歴史的記述のみならず、こうした地理や民俗の記述は非常に重要な資料となっている。
 いずれこの日記でもおいおいエピソードを挙げていきたいのだが、今日はその第1回め。こんにちの我々にも鋭く関わるテーマである。

 ペルシア帝国はエジプトからインドまでに及ぶ大帝国であった。紀元前522年、大王カンビュセスが事故で死ぬと、マゴス(魔術師・僧侶)がカンビュセスの弟スメルディスになりすまし、政権を簒奪した。
 ダレイオスら7人のペルシア貴族はスメルディスの正体を見破って、首都スーサで宮中クーデタを起こしてスメルディスを殺し、今後の政権協議に入る(以下の文章は松平訳に基いた要約)。

 最初に首謀者で最年長だったオタネスが口火を切って言う。
「我らのうち一人が独裁者になるのは好ましくない。何らの責任を負うことなく、思いのままに出来る独裁制が、どうして秩序ある国制たりうるだろう。この世でもっとも優れた人ですら、その栄耀栄華によってかつての心情を忘れる。驕慢の心と嫉妬心から、独裁者はあらゆる悪徳を身につけることになるのだ。要路にあるものを嫉み、下賎な者を寵愛し、讒訴を容れ、言行常ならない。褒めるとそれが足らぬといい、大切に扱うとおべっか者と不興になる。そして独裁者は、父祖伝来の風習を破壊し、女を犯し、裁きを経ずして人命を奪う。
 それに対して、大衆による統治は万民同権という名目を備え、役人は責任をもって職務にあたり、万事は公論によって決せられる。そこで私は、独裁制を廃して大衆の主権を確立すべきと思う」
 それにメガビュゾスという貴族が反論する。
「独裁制の廃止は同意見だが、主権を民衆にゆだねるというのは最善ではない。何の用にも立たぬ大衆ほど愚劣で横着なものは無い。独裁者は少なくとも自覚をもって事を行うが、大衆にはその自覚すらないのだ。何が正当であるかも教えられず、自ら悟る能力も無い者が、そのような自覚をもつ訳が無いではないか。さながら奔流する河と同じで、思慮も無くただがむしゃらに国事を推し進めて行くばかりだ。そこで、我らはもっとも優れた人材を選抜し、これに主権を賦与しよう。もっとも優れた政策がもっとも優れた人間によって行われるのは当然の理なのだ」
 それに対して、スメルディスを討ち取ったダレイオスは言う。
「私はメガビュゾスが大衆について発言したことは正しいと思うが、寡頭政治について発言したことは正しくないと思う。もっとも優れたただ一人の人物による統治よりも優れた体制が出現するとは考えられない。そのような人物は、その識見を発揮して大衆を見事に治めるであろうし、敵に対する謀略にしても、その秘密をもっともよく保持することが出来る。しかし寡頭制にあっては、競うあまり激しい個人的確執が起きやすく、内紛が生じ、流血を経て結局独裁制に決着するのだ。
 一方民主制の場合は、悪のはびこることは避けがたい。公共のことに悪がはびこる場合、悪人たちの間にはびこるのは敵対関係ではなく、むしろ強固な友愛感で、国家に悪事を働くものは結託してこれを行うからだ。こうなった場合、結局何者かが国民の先頭に立って悪人を倒し、国民の賛美の的となり、独裁者と仰がれる。このことを見ても、独裁制が最高の政体であるのは明らかではないか」

 結局7人の貴族のうち、4人までがダレイオスの意見に賛成したので、辞退したオタネスを除く6人のうちから大王が抽籤で選ばれることになり、結局ダレイオスが選ばれた。ダレイオス1世(在位前522~486年)である。ダレイオスは内政を整えるとともに、北方のスキュティア(ウクライナ)やギリシアに対する遠征も行い(どちらも失敗に終わったが)、国威を発揚した。彼はあちこちの碑文に書きつけた。
「偉大なる神アフラマズダの御意により余は王である」

 実際はこの「民主主義論争」は作り話ではないかという説もある。実際はダレイオス(ペルシア名ダーラヤワウ。ダレイオスというのはギリシャ語訛り)自身が簒奪者であり、オタネス(ウタナ)やメガビュゾス(バガブクサ)といった有力貴族の支持を得て、正当な後継者スメルディス(ペルシア名バルディヤ)を倒して王位に就いたと考えられるからである。バルディヤが偽者であったというのはダーラヤワウの言いがかりに過ぎず、実際、バルディヤの即位後は平穏だったのに対し、ダーラヤワウの即位後には、帝国各地で叛乱が起き、彼はその鎮圧に数年を要しているからである。
 ともあれ、「民主主義の時代」に生きる我々は、ダレイオスの主張をはね返すことが出来るだろうか。もっとも、北朝鮮みたいな、オタネスの主張がもろに当てはまる国は現代にもたくさんあるが。


 2003/01/20(月) のぞきをして王になった男

 今日の夕方、授業でリュディア(紀元前8世紀~紀元前547年、今のトルコ西部にあった王国)の話が出た。授業でも触れられていたが、ヘロドトス「歴史」にはリュディアに関する面白い話がいくつか出ているのでその紹介(「歴史」巻一、8節以下)。
 以下に紹介する話は映画「イングリッシュ・ペイシェント/英国人の患者」(A・ミンゲラ監督)の中でも紹介されている。ヒロインの英国人女性キャサリンが、退屈しのぎにサハラ砂漠探検の同行者に語って聞かせる。映画的にはカットしちゃってもいいような場面だが、主人公(レイフ・ファインズ扮するハンガリーの没落貴族)とキャサリンのその後を暗示させるシーンでもある。

 リュディアにカンダウレスという王が居た。この王は自分の妃にぞっこん惚れ込み、その美しさを吹聴していた。ある日カンダウレスは、側近のギュゲス(映画「イングリッシュ・ペイシェント」では英語発音で「ガイジス」となっている)に向かって言った。
「お前はわしの妃の容色について、わしの言うことを信じておらぬようだな。ならばわしの妃が服を脱いだところを見せてやろう」
ギュゲスは仰天して言う。
「自分の主君の妃の裸を見よとは、なんと分別の無いことを申されますやら。女というものは、下着と共に恥じらいの心を脱ぎ去るものでございます。また、己のもののみを見よ、と古人も言っております。私はお妃がこの世でもっとも美しい方であると確信しておりますので、そのような無法なご命令はおやめください」
 しかしカンダウレスは、隠れて覗けば大丈夫、といってギュゲスを自分の寝室に隠し、妃の裸体を覗くことを強要した。
ところが、覗き見された当の妃は、覗きを終わって部屋から忍び出て行くギュゲスを見てしまった。妃はこれが誰の差し金かすぐ察し、裸体を見られた恥に内心怒り狂った。
 翌日妃はギュゲスを呼び出した。覗きがうまくいったと思いこみ何食わぬ顔で伺候したギュゲスに対し、妃は言い放つ。
「そなたには進むべき道が二つある。どちらを取るかはそなたに任せよう。私に恥をかかせたカンダウレスを殺して私と王国を二つながら手にするか、それとも王妃の裸を覗き見した罪によりこの場で処刑されるかじゃ」
 ギュゲスは最初恐れて嘆願したが、妃の怒りは収まらない。結局ギュゲスはカンダウレスが彼に強いたのと同じ方法で王の寝室に忍び、短剣でカンダウレスを殺して、妃とリュディアの王位を手に入れた・・・・。

 このギュゲスという人物、紀元前690年頃にリュディア王位についたと見られる実在の人物である。同時代のアッシリア帝国の史料に「ググ」という名前で登場する。ヘロドトスによれば、上記のいきさつでカンダウレスのヘラクレス家を倒してメルムナス朝を立てた。リュディア王国は領内の川で産出する砂金で栄え、また世界最古の貨幣を発明した国としても知られている。リュディア王国の都だったサルディスでは今もアメリカ人による発掘調査が続いている。「ギュゲスの墓」なる古墳もあるが、度重なる盗掘や調査にもかかわらず、まだ墓室は発見されていない。
 哲学者プラトンの「国家」には、「ギュゲスの指輪」という話も出てくる。羊飼いだったギュゲスが偶然魔法の指輪を手に入れる。その指輪は自分の姿を隠せる、つまり透明人間になれる指輪だった。ギュゲスは指輪を悪用してまず妃と通じ、次いで王を殺して王位を奪ったことになっている。近代にこれを戯曲化した作品(「ギュゲスの指輪」)もあったと思うが、誰の作だったか忘れた。

 ギュゲスがカンダウレスに言った言葉、「女というものは下着と共に恥じらいの心を脱ぎ捨てるものでございます」というのは、「裸体となった女は、他人から払われる敬意をも剥ぎ取られる」という意味だととる人もいる。どっちなんでしょうね。


 お年寄りの考古学? 2004年01月14日(水)

 たまには自分の専門についての日記。
 今日は夕方、コロキウムに出る。日本で言うと修士・博士論文構想発表会みたいなものか。教授も来るので、自由参加とは言えれっきとした授業である。
 今日発表したのは博士号を既に取得しているEさん。彼女はHabilitation(教授資格認定論文。日本には無い制度)を書いている。ヨーロッパの初期中世(4~8世紀=メロヴィング朝時代)の考古学が専攻である。
 彼女が選んだテーマは「初期中世の老人について」だそうで、かいつまんでいえば「考古学の遺物から中世の老人像を探る」ということか。具体的には発掘されたお墓から出土した副葬品や遺骨の情報データベースを作り、それを基にして当時の老人の扱いや社会的位置などを探るというものらしい。なんだかデータベース作りが本来の目的で、それにもっともらしいテーマを後から付け加えたようにも見えたが・・・。

 考古学界や歴史学界での流行は結構露骨に世相を反映する。所詮は学説や研究動向も時代を映す鏡なのだろう。ナチスの頃はドイツではゲルマン民族の考古学が盛んで、発掘された物から「原ゲルマン人」の分布地域を設定したりした。その研究成果はナチスのプロパガンダに利用され、「もともとゲルマン人が居た地域はドイツが領有して当たり前」と、ドイツの東方侵略の思想的根拠になったりした(今はEU時代なので、汎ヨーロッパ的に分布していたケルト人の考古学が盛んである)。
 戦後は社会主義の影響を受けた社会階級分析が流行ったり、エコロジーに立脚した環境考古学、ウーマンリヴの流れにのったジェンダー考古学など、数え上げればきりが無い。現代は確かに高齢化社会・老人の時代だから、Eさんのような研究テーマをもつ人が出ても不思議ではないのかもしれない。
 
 ただ、実際にそのテーマで研究するとなるとなかなか難しい問題があると思う。
 形質人類学の知識があれば、出土した骨の観察から大体の年齢は10歳単位で推定できる(歯や骨の磨り減り具合などを見れば分かる)。形質人類学では成人の年齢はadult(青年)、matur(壮年)、senil(老年)と分類される(ラテン語)。それぞれ大雑把にいって20歳ごとで、Senilは60歳以上を示す。墓から発掘された骨の分析・統計によれば、大体当時の人口の10%くらいがSenilに分類されるようだ。つまり人口の10%が60歳よりも長く生きたことになる(ただし前近代の乳幼児死亡率はきわめて高く、かつ乳幼児は別に埋葬され残りにくいので、この数値はもっと下がるかもしれない)。
 しかし彼女も言っていたが、当時は今に比べて寿命が極めて短い。日本でも「人間五十年・・」といっていたくらいで、当時の人にとっての「老人」の定義は今とは大きく違っていただろう。彼女の研究目的は生物学的な「老人」の定義ではなく、当時の人たちが考えた「老人」をめぐる物事である。

 さらに、誰も突っ込まなかったが、彼女は墓から出土した骨や遺物で研究するとのことだが、果たして当時の人々が全員ちゃんとお墓に埋葬されたのか、という疑問が僕には残る。
 例えば日本の中世だと、京都の貧民は死ぬと郊外の鳥辺野に捨てられた(いちいち焼いたり埋めるような面倒なことをしなかった)。あとは犬やカラスが始末していたので、こういう人の骨はばらばらになって残らないだろう。ヨーロッパの中世でも墓に埋葬されたのは一部の裕福な、もしくはちゃんと洗礼を受けた人のみだった可能性があるし、裕福な人と貧民とでは老人の定義や扱い、さらには生物学的な老け方に差が出るのは、自明のことだろう。
 極端な例だと究極の人口調節である「姥捨て山」の例もある。すごいのだと、ヘロドトスの「歴史」に出てくる、中央アジアの遊牧民・マッサゲタイ人の逸話がある。そこでは人が非常に年を取ると親戚一同が寄ってたかってその老人を殺し、皆でその肉を食べてしまう。食べられてしまうことは長生きした証拠で、皆で死者の肉を食べながらその人の人生をお祝いするが、食べられずに死んでしまった者には、随分早死にしたものだと皆で死者のために悲しむ、とヘロドトスは伝えている(これは実力第一主義の遊牧民の社会であまり老人が尊ばれないことを反映した「お話」に過ぎないのだろうが)。
 ともかく、考古学で気をつけないといけないのは、むしろ後世に残らないもののほうが多い、ということだろう。我々がデータベースを作っていじくりまわしているのは実は過去の歴史のほんの一部で、それによって描かれた歴史は、人類の壮大な歴史全体から見れば、ほんの一面を表わしているに過ぎないのである。


 ヘロドトス「歴史」を読む   2004年06月17日(木)

 今日の夕方は集中講義に出てきた。インスブルック大学の教授による、ヘロドトス「歴史」の記述についての講義である。
 ヘロドトス(紀元前484?~425年頃)は現在のトルコ南部にあったハリカルナッソス出身のギリシア人である。「歴史の父」と呼ばれるように、その著書「歴史」は、紀元前一千年紀のギリシアや中近東の歴史についての豊富な情報を提供してくれる。中国の司馬遷と並び称されるわけである。「エジプトはナイルの賜物」という言葉も、彼の「歴史」の中の一節である。
 今日の授業はイラン高原にあったメディア王国(紀元前8世紀頃~紀元前585年)に関する「歴史」の記述内容を、同時代の中近東側の史料(アッシリア、バビロニアの碑文や粘土板文書)と比べて吟味すると言うものだった。予想していたよりもかなり専門的で(その割に目新しいことは無かったが)、また資料を大量に配られて辟易した。
 ヘロドトスの「歴史」に登場する歴代メディア王であるデイオケス、フラオルテス、キュアクサレス、アステュアゲスは、それぞれアッシリア・バビロニア史料に登場するダイウック、カシャタリトゥ、ウマキシュタル、イシュトゥメグによく比定されるが、カシャタリトゥまではヘロドトスの伝えるような大国の王ではなく、地方領主として中近東史料に登場している。ヘロドトスの記述は参考にはなるが、そのまま鵜呑みにすることは出来ないようだ。

 世界史の授業ではヘロドトスの「歴史」について「ペルシアがギリシアに侵入したペルシア戦争(紀元前500年~479年)の記録である」と習ったと思う。それは間違いではないが一面に過ぎず、それではこの本の面白さは伝わらないと思う。日本語では松平千秋による訳が岩波文庫から出版されているが、この古典を日本語で読めるというのは実に幸せなことである。
 ヘロドトスはペルシア戦争がなぜ起こったのかを語るために、まずペルシアが興隆してアジア(中近東)全土を征服し、ギリシアに攻めて来るまでを語る。その過程で話があっちこっちに飛び、その記述はあたかも博物誌・地理誌のような内容になる。決してギリシアのみの歴史書ではなく、むしろ当時のギリシア人が知っていた範囲での「世界史」になっており、その記述の範囲は中央アジアから中近東・ギリシア、果てはアフリカ(ジブラルタル海峡)、アルプス以北にまで及ぶ。ヨーロッパのケルト人に最初に言及した記録でもある。
 ヘロドトスはあちこちを自ら旅して見聞を広め、「うっそー!」というような内容まで書き留めているので、読んでいて滑稽な記述にも出くわす。読んで何かのためになるような本ではないが(例えば株式投資に詳しくなったり国際政治に詳しくなったりするような実用的な内容では決して無い)、自然現象に彼なりの科学知識で大胆な説明を加えたり(安易に神のせいにしない)、異文化にも温かく素直な眼差しを向けたヘロドトスのおおらかな記述は、むしろ今のような世知辛い時代には難しいかもしれない。

 僕はライコス日記時代に「古代ペルシアの民主主義問答」「のぞきをして王になった男」というタイトルで、「歴史」の中のエピソードを紹介したことがある(左側のページのどこかに入ってます)。また楽天日記になってからは「姥捨て山伝説・中央アジア版」に触れた事がある。
 今日は手短に「歴史」の中の逸話を1つ紹介しておこう。

 メディア王国(今のイランあたり)の3代目の王・キュアクサレスは北方の遊牧騎馬民族であるスキュタイ人から騎馬術を学び、大胆な軍制改革を行った。ところがこのスキュタイ人たちがキュアクサレスの無礼な振る舞いに恨みをもち、キュアクサレスの王子を殺して料理し、獣肉と偽ってキュアクサレスに食べさせた上で、隣国のリュディア王国(現在のトルコ西部)に亡命した。
 事実を知ったキュアクサレスは当然、リュディア王アリュアッテス(覗きをして王になったギュゲスの曾孫)に犯人の引渡しを要求した。アリュアッテスは引き渡しに応じず、両国は戦争になった。両国の国境であるハリュス川(トルコ中央部を流れている。現代名クズルウルマック)を挟んだ戦いは5年の長きに及んだ。両国とも本場スキュタイ仕込みの騎兵が自慢で、戦いは一進一退だった。
 6年目に起きたある会戦の際、戦いさなかに突然昼から夜になってしまった。日没の時間でもなければ雲が出ていたわけでもない。両軍はこの変化に恐れおののき、「戦争は神の意志に反する」と判断して急いで和平条約を結んだ。アリュアッテスの娘がキュアクサレスの王子に嫁ぐことで、この和平は強固なものとされたという。

 この「日の転換」は言うまでも無く皆既日食である。天文学者の計算によれば、この当時のトルコ中央部で皆既日食が見られたのは紀元前585年5月28日だったという。ヘロドトスのこの記述を元に、天文学の成果を応用することにより、漠然としていた古代ギリシャや中近東の歴史的事件の年代が、ほぼ正確に判るようになったのである。
 僕は1999年8月に実際にトルコで皆既日食を体験した(この時、「日食体験ツアー」が日本から大量にトルコに来たという)。それまで快晴でまぶしかった日差しが急に翳り、辺り一面が薄紫というか何ともいえない不気味な薄暗い光景になった。日食自体は数分しか続かなかったが、この現象を科学的に説明できない古代人には驚きの体験だったかもしれない。もっとも、同時代に生きたミレトス(トルコのエーゲ海岸)の哲学者タレスは、この日食を事前に予測して人々に予告していたという。
 この1999年の日食騒ぎの時は、日食見物の為に太陽を直接見て目を悪くする人が続出した。かくいう僕も数日後にひどい熱が出たのだが、あれは太陽を見すぎたせいだろうか。トルコの隣国・シリアでは日食の時間には外出禁止令が出ていたという。国民が太陽を見て目を痛めるのを防ぐ意味もあったようだが、実際のところは国民統制の一環で(シリアはイラクと同じバース党政権である)、かつ日食がもたらすという不吉を避けたかったのかもしれない。上記の「日食の会戦」はむしろ日食が幸運をもたらしたのだけど。


「ヨーロッパ」と「アジア」 2004年06月19日(土)

 さて僕は今まで何気なく「ヨーロッパ」という言葉を使ってきた。「ヨーロッパ」というと、例えば芸術の分野ではその響きには、アメリカ文化の対極である「優雅・洗練」というイメージがある。「ヨーロッパ車」「ヨーロッパ映画」などなど。
 一方、「アジア」というと「アジア的停滞」「アジア的専制」など、かつては悪いイメージが多かった。最近はNIES諸国や中国の経済成長で「アジア・ブーム」なるものが叫ばれている。「アジア食品」や「アジア映画」も人気ですね。政治的には福沢諭吉が「脱亜入欧」を叫び(最初にこれを見たときは「とんでもないことを言う奴だ」と思ったものだった)、最近は「再入亜」が叫ばれているように見える(アラブ諸国との連帯、中国・韓国との友好など)。
 まあイメージなんてものは時代とともに変わるもので、一番いい例は日本製品(メイド・イン・ジャパン)だろう。今でこそ高価格・高品質の代名詞だが、かつては安かろう悪かろうというイメージだった。19世紀末には「メイド・イン・ジャーマニー」(ドイツ製)が同じような変遷を辿ったそうだ。

 さて僕が気になったのは「ヨーロッパ」「アジア」という言葉のイメージではなく、その語源と概念である。それは先日触れたヘロドトス「歴史」(紀元前5世紀)にも触れられている。
 「ヨーロッパ」というのはギリシャ神話に出てくるフェニキア(現在のレバノン)王の娘エウロペに由来しているというのは比較的知られている。ギリシャ神話の主神ゼウスはどうしようもない助平な神様で、あちこちの娘に横恋慕しては妻である女神ヘラの嫉妬を買う。ゼウスはテュロス王アゲノルの娘エウロペに恋して、牡牛の姿に化けてエウロペに近付き、従順な牛の背中にうっかり乗ってしまったエウロペをオリンポス山のあるギリシャまで拉致したという。それ以来ギリシャの属する大陸は、このゼウスの寵姫の名前をとって「ヨーロッパ」と呼ばれるようになったという。
 ヘロドトスは、エウロペをさらったのは神たるゼウスではなく、ギリシャ人の一団(船乗り?)だった、と「歴史」の冒頭に書いている。この拉致事件がヨーロッパとアジアの宿命的対立を招き、やはり女性の拉致事件に端を発するトロイア戦争(紀元前1200年頃?)や、ヘロドトスが記録したペルシア戦争(紀元前500~479年)になったのだという。
 ギリシャ人がフェニキア人の王女を拉致するという記述には、紀元前9世紀頃にギリシャが先進国フェニキアの圧倒的な文化的影響を受けた事実(例えばフェニキア文字だったアルファベットの導入など)が象徴的に示されているのだろう。「ヨーロッパ」は「アジア」から生まれたのである。よく「ユーラシア」などと並べていうがおこがましい事で、ヨーロッパはアジア大陸の西端にある巨大な半島と見ることも出来る。

 ではその「アジア」の語源は何だろうか。これは諸説があるが、かつてはエーゲ海のアジア側沿岸にあった都市アッソスがその語源ではないかと言われていた。ギリシャ人にとってもっとも近い地域を、その背後にある大陸の総称として用いたというのである(同じようなことは、フランス語でドイツのことを「アルマーニュ」という事にも見られる。「アルマーニュ」の語源はゲルマン人の一派でフランスに隣接して住んでいたアレマン族に由来している)。
 つまり「アジア」というのは当初はエーゲ海沿岸部(イオニア地方)のみの概念だったのが、やがて小アジア(今のトルコ)全体に拡大適用され、さらには中近東(西アジア)全体になり、ヨーロッパ人の地理的知識の拡大と共にその概念はどんどん拡大して、ついにはヘロドトスが知りもしなかった筈の中国や日本まで含まれることになった。元を正せば「ヨーロッパ」にしろ「アジア」にしろ、狭いエーゲ海での話だった。
 昨今の日本で叫ばれる「アジア・ブーム」の「アジア」は主に中国や東南アジアを念頭に置いているのだろうが、ヨーロッパ人が「アジア」という場合、まず頭に浮かぶのは一番近い中近東(西アジア)やインド(南アジア)のはずだ。かつて岡倉天心は「アジアは一つ」といったが、その「アジア」概念からしてヨーロッパからの借り物である(それを承知で天心はこの言葉を発したのだが)。
 ちなみに、ヘロドトスはヨーロッパは地球の北半分全体を蔽う巨大な大陸で、南半分を東のアジアと西のアフリカが分けていると考えていた。この世界像は17世紀以降のロシアによるシベリア征服で、政治的には現実のものになっている。

 ところが、19世紀以降、古代中近東の粘土板文書に書かれた楔形文字が解読されるにつれ、「アジア」「ヨーロッパ」の概念はもっと古くからあることが分かってきているらしい。
 紀元前13世紀まで小アジア(今のトルコ)に栄えたヒッタイト帝国の文書には、今のトルコ西部の地名として「アスワ」というのが出て来る。これをギリシャ人が当初考えていた「アジア」(エーゲ海沿岸地方)と同一視する説もある。
 一方、今のイラク北部で使われていた古アッシリア語やアッカド語(紀元前2000年頃)の解読で、これらのセム系言語では「日の昇る処」(すなわち東)という意味の「アスー」、「日の沈む処」(すなわち西)という意味の「エレーブ」という言葉があり、ギリシャ語に伝えられて「アジア」「ヨーロッパ」の語源になったという説がある。セム系言語で単に方角に過ぎなかった言葉を、ギリシャ人が自分を中心にした大陸の命名に使ったというわけである。
(ちなみに現在のセム系言語の代表であるアラビア語では「東」は「シャルク」、西は「ガルブ」という)
 「太陽が出る処」と「没する処」、東と西という概念は、ラテン語の「オリエント」「オクシデント」という言葉にも見られ、それぞれ「アジア」「ヨーロッパ」の意味になった。ドイツ語では今でも「Morgenland」(朝の国)・「Abendland」(夕の国)と気取って言ったりする。

 僕は自分の専門を聞かれたとき、「西アジア考古学」と答えることにしている(そういう学会もある)。日本や世界でよく通用している「中近東」と同じ意味だが、「中近東」という言葉はヨーロッパ中心主義・史観に由来しているので、なるべく使わないようにする傾向にある。ところが「アジア」という概念自体が、ヨーロッパ起源なんだよな。第一「西アジア」というが、その概念にはエジプトなど北アフリカも含まれる(文化的結びつきを考えれば切り離すわけにはいかない)。面倒なことこの上ない。

 ちなみにかつてのイスラム教の世界観は、イスラム教徒の支配する「平和の家(ダール・ル・イスラーム)」と異教徒の支配する「戦争の家(ダール・ル・ハルブ)」に分かれていた(のちにヨーロッパの台頭でこの世界観は崩れていく)。中国なんて名前からしてまさにそうだが、どこの人も自分を中心に考えるのは同じらしい。
 16世紀以前の日本には「世界」にあたる概念として「三国」という言葉があった(石原都知事の発言で物議を醸した「三国」ではない)。今でも「三国一の果報者」なんて言いますね。日本・中国(含む朝鮮)・インド(天竺)が日本にとっての「世界」だった(もっともこの言葉が一般に流行したのは、大航海時代である16世紀だという)。第一、8世紀に成立した「日本」という国名からして、「日の昇る所」、つまり「東」という相対的な地理関係を名前にしている(14世紀に成立した「朝鮮」もそうだ)。それだけ中国は偉大ということでもあるが、これなんか「ジコチュー」ではなくて比較的控えめだと思うんですが、いかにも日本らしくはある。



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